オストドのひとりごと・・・「決してあの日を忘れません!」 [ひとりごと]
空飛ぶ食欲魔人ことオストドでございます。
平成7年1月17日午前5時46分52秒・・・・
確かに・・その時、オストドは家族を引き連れ、赴任し借り上げ社宅のあった神戸市東灘区に居た。
幸いだったのは、出張続きだったオストドがその日、その場所に居られたことだろう。
本来だったら、オストドは北陸へ出張していたかもしれない。
ただ、運命の神様は、オストドに転勤命令というプレゼントを用意していてくれたのだ。
阪神大震災のちょうど一年前、オストドは“大阪支社”へ赴任させられていた。
それから、半年後には京都営業所所長へと抜擢されていたのだ。
「大阪ぁ~?嫌!」
渋るメストド1号。会社からは、家族での赴任が義務付けられていた。
「じゃあさ・・・神戸なんかどう?」
「それなら・・考えなくもないけど・・・行かなきゃ駄目なの?」
「まあね。何しろ“総合職入社”だからね。」
丁度・・・そう表現していいのだろうか?メストド1号の母親。つまり、オストドにとって唯一の母でもある。
その時、癌の手術をしたばかりだったのだ。
「親になんて言おうかしら?」
「だねぇ~ショック大きいかな?」
「パパには、言っておいて相談しなきゃ・・」
「だね・・・」
そうして・・大阪へ正式に赴任したのが、前年の2月1日。
その年の8月には、毎日“三都物語”の通勤を余儀なくされて、神戸から京都まで通っていたのだ。
そう・・・その日までは、安穏とした生活が繰り返されていた・・・・
そして・・迎えた1月16日の深夜・・・普段では絶対にあり得ない事を言いだした。メストド1号。
「ねえ~牛丼食べたくない?」
「いいねえ~ちょっと行って来るか・・・」
牛丼を食べて帰宅したのが、午前零時ちょっと前。その時は街並みが崩れるとは予想もしていなかった。
1月17日午前5時45分。オストドとメストドはまだ・・布団の中に居た。
正確に言えば、ダブルベッドだが・・・・
「ねえ~朝ごはん何食べる?」
「そうねえ~」
そう言いながら・・・カーテン越しに外を見るオストド。空の色が異様な色をしていた・・・
「ヤバい・・何かある・・・」
そう言いかけた時・・・ドォォォォンと
地響きのおとが聴こえ、ものの数秒もしないうちにガタガタと家が揺れ始めた。
「ヤバイ!ガスタンクが爆発したか?」
そう言いながらオストドはとっさに布団を頭から被り、メストド1号に覆いかぶさった。
「ウォォォォォォォx~!なんじゃこれはぁぁぁぁぁ~」
そう叫んでいたのを記憶している。妻は今まで聞いた事のない声で、メストド2号に指示を出していた。
食器が割れ、ガス台にあった天ぷら鍋はひっくり返り、冷蔵庫は倒れ、洗濯機と乾燥機はよくぞここまで
そう言いたいくらい移動して倒れていた。
桐のタンスは粉々になり、オストドの枕の上には、小型のテレビが降って墜ちていたのだ・・・
揺れが収まり、歩ける様になった時、オストドは靴下を履き、メストド1号を布団でくるみ、愛娘である
メストド2号の部屋へ駆けだした。
「果たして・・無事だろうか?神様!俺の命で良かったら差しあげますですから・・・」
そう願いながら娘の部屋へ駆けつけると、ベッドの上でキョトンとしていた娘。
「嫌な予感って言うのかな?ガラス外せって声が聴こえてね・・・・」
後日、娘はこうオストドに話をした。何しろ、娘の部屋の家具のガラスは全て外されていたし、
更に、梱包までされていたのだ。
「ふう~良かった。」
娘を抱きかかえ、メストド1の元へ連れて行く。
「いいかい!着れるだけの洋服を着ておいて・・外を見てくる。」
そう・・叫んで外へ飛び出したオストドの眼には、
“御影住みたし、金は無し。せめて住みたや夙川に・・・”そう歌われた閑静な住宅街のはずの街並み。
それが・・まるで地獄絵図を見ている様だったのである・・・・
この地震で亡くなられた6434名。行方不明者3名。負傷者43792名・・・
今も亡くなられた方のご冥福と大切な人や大事な財産を無くされた方々には、掛ける言葉がない。
(オマケ!)
オストドのお父様と会社の専務は、次々に入るニュースを観て真っ青になった様である。
オストドが無事を知らせる電話をした途端、電話の受話器から、怒鳴り声が聴こえてきた。
後で聴いた話によると・・・もうちょっと遅ければ、死んだと思いこんでいたらしい・・・・
悪たれ連のYなどは、ヘリコプターをチャーターしてオストドの捜索を始める所だったと言っていた。
15年目の今日。我が家のメンバーはまだ元気です。ついでに・・・この日を一緒に迎えるべく、
メストド2号は仮住まいから、食糧強奪の意味もあるだろうが、我が家に来ている。
私は・・・午前5時46分52秒に・・鎮魂の祈りをそして、大好きな人々の幸せを祈る。
平成7年1月17日午前5時46分52秒・・・・
確かに・・その時、オストドは家族を引き連れ、赴任し借り上げ社宅のあった神戸市東灘区に居た。
幸いだったのは、出張続きだったオストドがその日、その場所に居られたことだろう。
本来だったら、オストドは北陸へ出張していたかもしれない。
ただ、運命の神様は、オストドに転勤命令というプレゼントを用意していてくれたのだ。
阪神大震災のちょうど一年前、オストドは“大阪支社”へ赴任させられていた。
それから、半年後には京都営業所所長へと抜擢されていたのだ。
「大阪ぁ~?嫌!」
渋るメストド1号。会社からは、家族での赴任が義務付けられていた。
「じゃあさ・・・神戸なんかどう?」
「それなら・・考えなくもないけど・・・行かなきゃ駄目なの?」
「まあね。何しろ“総合職入社”だからね。」
丁度・・・そう表現していいのだろうか?メストド1号の母親。つまり、オストドにとって唯一の母でもある。
その時、癌の手術をしたばかりだったのだ。
「親になんて言おうかしら?」
「だねぇ~ショック大きいかな?」
「パパには、言っておいて相談しなきゃ・・」
「だね・・・」
そうして・・大阪へ正式に赴任したのが、前年の2月1日。
その年の8月には、毎日“三都物語”の通勤を余儀なくされて、神戸から京都まで通っていたのだ。
そう・・・その日までは、安穏とした生活が繰り返されていた・・・・
そして・・迎えた1月16日の深夜・・・普段では絶対にあり得ない事を言いだした。メストド1号。
「ねえ~牛丼食べたくない?」
「いいねえ~ちょっと行って来るか・・・」
牛丼を食べて帰宅したのが、午前零時ちょっと前。その時は街並みが崩れるとは予想もしていなかった。
1月17日午前5時45分。オストドとメストドはまだ・・布団の中に居た。
正確に言えば、ダブルベッドだが・・・・
「ねえ~朝ごはん何食べる?」
「そうねえ~」
そう言いながら・・・カーテン越しに外を見るオストド。空の色が異様な色をしていた・・・
「ヤバい・・何かある・・・」
そう言いかけた時・・・ドォォォォンと
地響きのおとが聴こえ、ものの数秒もしないうちにガタガタと家が揺れ始めた。
「ヤバイ!ガスタンクが爆発したか?」
そう言いながらオストドはとっさに布団を頭から被り、メストド1号に覆いかぶさった。
「ウォォォォォォォx~!なんじゃこれはぁぁぁぁぁ~」
そう叫んでいたのを記憶している。妻は今まで聞いた事のない声で、メストド2号に指示を出していた。
食器が割れ、ガス台にあった天ぷら鍋はひっくり返り、冷蔵庫は倒れ、洗濯機と乾燥機はよくぞここまで
そう言いたいくらい移動して倒れていた。
桐のタンスは粉々になり、オストドの枕の上には、小型のテレビが降って墜ちていたのだ・・・
揺れが収まり、歩ける様になった時、オストドは靴下を履き、メストド1号を布団でくるみ、愛娘である
メストド2号の部屋へ駆けだした。
「果たして・・無事だろうか?神様!俺の命で良かったら差しあげますですから・・・」
そう願いながら娘の部屋へ駆けつけると、ベッドの上でキョトンとしていた娘。
「嫌な予感って言うのかな?ガラス外せって声が聴こえてね・・・・」
後日、娘はこうオストドに話をした。何しろ、娘の部屋の家具のガラスは全て外されていたし、
更に、梱包までされていたのだ。
「ふう~良かった。」
娘を抱きかかえ、メストド1の元へ連れて行く。
「いいかい!着れるだけの洋服を着ておいて・・外を見てくる。」
そう・・叫んで外へ飛び出したオストドの眼には、
“御影住みたし、金は無し。せめて住みたや夙川に・・・”そう歌われた閑静な住宅街のはずの街並み。
それが・・まるで地獄絵図を見ている様だったのである・・・・
この地震で亡くなられた6434名。行方不明者3名。負傷者43792名・・・
今も亡くなられた方のご冥福と大切な人や大事な財産を無くされた方々には、掛ける言葉がない。
(オマケ!)
オストドのお父様と会社の専務は、次々に入るニュースを観て真っ青になった様である。
オストドが無事を知らせる電話をした途端、電話の受話器から、怒鳴り声が聴こえてきた。
後で聴いた話によると・・・もうちょっと遅ければ、死んだと思いこんでいたらしい・・・・
悪たれ連のYなどは、ヘリコプターをチャーターしてオストドの捜索を始める所だったと言っていた。
15年目の今日。我が家のメンバーはまだ元気です。ついでに・・・この日を一緒に迎えるべく、
メストド2号は仮住まいから、食糧強奪の意味もあるだろうが、我が家に来ている。
私は・・・午前5時46分52秒に・・鎮魂の祈りをそして、大好きな人々の幸せを祈る。
こんばんは。もう、そんなに経つのですね。
明日で15年目。。月日は流れても、被災者の方々の
傷痕は深く。。私も、何も言えないです。。
ただ、ご冥福を祈り、残された方が少しでも幸せに
なって欲しいと願うばかりです。
以前、仰ってた不思議な守りの言葉。分かりました。
本当に不思議ですが、メストド2号さんは、いつも
守られてるようで安心ですね^^
いつも人の事を考えて生きてらっしゃる空飛ぶ食欲
魔人さんの気持ちを汲んで下さった神様のお陰かも
しれませんね(^-^)
by livly-cu (2010-01-16 20:21)
あの当時歌手である友人のファンの間で、
朝日を見ながら曲を聴くのが流行っていて、
それの為に起きていたから助かったという人達もいました。
不思議な恩恵にあずかった人、
辛い体験をした人
色々な思いが交錯する日ですよね。
by A・ラファエル (2010-01-16 21:26)
そうですか・・・
大変な体験をされたのですねぇ
あの朝の衝撃は 忘れられないですよ
関東はいつも 地震の覚悟をしていますが
それでも その覚悟が半端なモノだと
そう 思い知らされた朝でした
by chunta (2010-01-16 22:14)
大変な経験をされましたネ
この時、拙は業者と池袋あたりで夜遊び。
まだE区の聖になる前でした・・・
by 雨漏り書斎主人 (2010-01-16 22:21)
大和川より南の地域なので、被害はほとんどありませんでしたが、あの揺れはいまでも覚えています。
by nyankome (2010-01-16 23:04)
15年前、よく覚えています。
当時も四国にいましたが揺れを感じました。
☆
by pandan (2010-01-17 07:31)
災害派遣された元自衛官の人たちの話を良く聞きますが、想像を絶する状態だったようですね・・・言葉もありません
ただただご冥福をお祈りします。
by inacyan (2010-01-17 10:24)
おはようございます
ご無沙汰していてごめんなさい
いつもありがとうございます。
m(_ _)m
by はくちゃん (2010-01-17 10:26)
私も神戸にいて…被災しました。
僕は、比較的被害の少ない西区に住んでいたので大丈夫でしたが、東の空は真っ赤な煙だらけだったらしいです。
by アニキング (2010-01-17 15:23)
名古屋もゆれたんですよ・・・
ゆっくり長時間・・・・
怖かった・・・・
by ★まっと★ (2010-01-17 19:06)
阪神淡路大震災経験されてたんですね・・・
東海地方も大地震が来るといわれてますから
対策はしっかりしておきたいです。
by shige (2010-01-17 23:51)
名古屋にいても、相当感じた地震と音。
現地のその当時を想うと、未だに言葉になりません。
亡くなった人たちのご冥福をお祈りします。
ご家族皆様方ご無事で何よりでした。
by ミカリン (2010-01-18 00:00)
いざというときのことを考えて
備えたいと思います。
by pandan (2010-01-18 06:58)